悪質な煽り運転が後を絶ちません。被害者の恐怖や憤りは、言葉では表せないものでしょう。そして、教師の職場いじめも後を絶ちません。煽り運転と職場いじめ。これらの悪質さは同じです。
今回は、教師いじめの悪質さを整理し、その深刻な実態を明らかにします。そして、この問題に真剣に向き合う人が一人でも多く現れることを願います。
※教師いじめの分類は下記を御参照ください。
◆先生、それは教師同士のいじめですよね?➀
◆先生、それは教師同士のいじめですよね?➁
目次
根底にある身勝手な認識
煽り運転も教師いじめも、「俺の邪魔をした」という身勝手な考えが根底にあります。煽り運転であれば、「追い越し車線を走っている車は、全て自分の走行を妨げるもの」といった認識です。
教師の職場いじめで言えば、「お前が学級通信を出すと、自分たちまで出さなくてはいけなくなる。だから、出すな」という認識です。そうなったら困るという恐れから来ているのでしょう。
この身勝手さの裏には、より深刻な問題が潜んでいます。それは、自分の快適性を維持するために他者を支配しようとする暴力性です。
なぜ他者の努力を「邪魔」と認識するのか
職場いじめの加害者は、同僚の教育的な取り組みを「邪魔」と認識します。なぜでしょうか。それは、自分の怠慢や手抜きが相対的に浮き彫りになることを恐れているからです。
例えば、ある教師が丁寧な学級通信を発行すると、保護者はそれを他のクラスと比較します。「なぜうちのクラスは学級通信がないのか」「○○先生のクラスの方が熱心に見える」といった声が出ることを恐れるのです。
しかし、これは完全に逆転した思考です。本来であれば、同僚の優れた実践を見て「自分も頑張ろう」と奮起するか、「自分には別の良さがある」と自信を持つべきです。ところが、加害者は同僚の足を引っ張ることで問題を「解決」しようとします。
この思考パターンは、教育者として致命的な欠陥を示しています。なぜなら、児童生徒に対しても同様の態度で接している可能性が高いからです。「頑張る子どもは目立たないでほしい」「できる子どもは周りに合わせてほしい」といった、教育の本質を否定する発想につながりかねません。
「自分がルール」という身勝手さの深層
悪質な煽り運転では、「自分が走っている追い越し車線に、別の車がいる」という身勝手な供述が出たりします。一般道も高速道も公道です。それにもかかわらず、「自分が思うように、快適な気持ちで走りたい」というエゴを何の疑いもなく正当化し、貫き通す状態は身勝手以外の何物でもありません。
職場いじめも同様です。先の「学級通信」をもとに考えると、出す同僚を責める教師は、やはり身勝手なエゴをむき出しにしています。「自分が思うように、快適に仕事をこなしたい」と。具体的には、「学級通信など面倒なことをするつもりはない。そんなイレギュラーなことをするから教師は忙しくなるんだ。そんなことをする奴は、俺の邪魔をしているとしか思えない」といった具合でしょうか。
勝手な想像による加害
このような思考過程をたどる人には特徴があります。それは、学級通信を書こうとしている同僚が「○○先生も書いてください」と言っていないということに気付かないということです。
ただ、「書こうとした・書いた」というだけで、自分の邪魔をされたと考える。これは「自分も書かないといけなくなる」と勝手に想像しているわけです。何を根拠にか?勝手な想像によってです。
この「勝手な想像による被害妄想」こそが、教師いじめの最も悪質な特徴の一つです。相手は何も要求していない。何も強制していない。ただ自分の教育実践を行っているだけ。それなのに、加害者は一方的に「攻撃された」と感じ、報復行動に出るのです。
これは明らかに認知の歪みです。しかも、その歪んだ認知を修正しようとせず、むしろ正当化して他者を攻撃する。教育現場で働く大人として、人間として、許されることではありません。
いじめの長期化と集団化
その状態で同僚を責めたてる理不尽さ。児童生徒のため、保護者のために自分のできることで、教師の裁量権の中で教育実践を進める同僚を責め追い詰める行為。しかも、長引くのです、これが。ネチネチと。そして、日常的に悪口を広め、いつの間にか取り巻きまでできている始末。
職場いじめの恐ろしさは、その継続性と集団性にあります。一度標的にされると、長期間にわたって執拗な攻撃が続きます。しかも、加害者は味方を募り、職場全体を巻き込んでいく傾向があります。
「あの人は協調性がない」「みんなの迷惑を考えない」「浮いている」といった噂を流し、被害者を孤立させていきます。そして、周囲の教師たちも「面倒に巻き込まれたくない」という心理から、被害者を避けるようになります。
このプロセスは、子どものいじめと全く同じ構造です。いや、大人が行うからこそ、より陰湿で巧妙です。子どもなら「いじめはダメ」と指導できますが、教師同士のいじめには歯止めがかからないことが多いのです。
本来あるべき対応
自身の教師としての在り方に「学級通信」という手段がないのであれば、保護者会を丁寧にやればよいではありませんか。また、連絡帳を充実させるでも何でも、保護者に児童生徒のことを伝える手段はあるはずです。
また、「保護者にことさら詳細な連絡は必要ない」と考えるのなら、それは自身の信念として、自己責任で貫けばよい。貫くとはそういうことです。そこで、保護者から「学級通信はないんですか」と聞かれても、「はい。ありません」と答えれば良い。そして、より丁寧にその理由を付け加えれば良い。その時間も保護者とのコミュニケーションになるのですから。
これが、プロフェッショナルとしての正しい姿勢です。自分には自分のやり方がある。それに自信を持ち、堂々と説明する。他者の方法を否定するのではなく、自分の方法の価値を語る。
ところが、教師の職場いじめの加害者にはこの発想がありません。自分の方法に自信がないからこそ、他者を攻撃することで相対的に自分を上に見せようとするのです。
攻撃する相手を選ぶ悪質さ
煽り運転も教師いじめも人を選ぶ、という悪質さがあります。何も言わないような大人しい方がターゲットになります。継続して攻撃を受けます。その判断を最初の「アタック」で見分けるのですね、加害者は。
弱者を狙い撃ちする卑劣さ
身勝手な人間は、思うままに自分の感情をぶつけてきます。「学級通信なんか出すなよ」と。その相手が強面、かつ筋骨隆々で、校内で絶大な発言力のある同僚であれば、言い返されて終わりです。しかし、不安げな初任者や、大人しめの同僚であれば、一気に罵声を浴びせることもあります。
この「弱い者いじめ」の構造こそが、教師いじめの最も卑劣な側面です。加害者は相手を慎重に選んでいます。反撃してこない相手、孤立しやすい相手、助けが来にくい相手を狙い撃ちするのです。
初任者や経験の浅い教師は特に狙われやすい傾向があります。教育技術も人間関係も未熟で、誰に相談すればよいかもわからない。管理職との関係も築けていない。そういう状況を見透かして攻撃を仕掛けるのです。
また、真面目で責任感の強い教師も標的になりやすいです。「自分に非があるのではないか」「もっと努力すべきなのではないか」と自分を責める傾向があるため、いじめを受けても声を上げにくいからです。
パワーバランスを利用した支配
教師いじめでは、しばしば年齢や経験、校内での立場を利用した権力の濫用が見られます。
「君はまだ若いから分からないだろうが」「私は○○年の経験があるんだ」「学年主任として言わせてもらうが」といった前置きで、相手を萎縮させてから攻撃を始めます。
これは明らかにパワーハラスメントです。立場や経験を盾にして、相手の人格や教育実践を否定する。そして、反論しづらい状況を作り出してから一方的に攻撃する。
さらに悪質なのは、「指導」や「アドバイス」という名目で行われることです。「君のためを思って言っているんだ」「みんなのことを考えて言っているんだ」という偽善的な理由をつけて、実際には自分の不快感や嫉妬をぶつけているのです。
教師いじめが子どもに与える深刻な影響
教師の職場いじめの問題は、単に大人同士の人間関係の問題ではありません。子どもの教育に直接的な悪影響を与える深刻な問題です。
教育の質の低下
いじめを受けている教師は、精神的に不安定な状態で子どもたちと接することになります。常にストレスを抱え、職場に行くのが憂鬱で、同僚との関係に神経をすり減らしている状態では、質の高い教育は提供できません。
授業準備に集中できない、子どもたちとの関係構築に心の余裕がない、保護者対応にも不安を抱える。こうした状態が続けば、子どもたちの学習権が侵害されることになります。
負の手本としての影響
さらに深刻なのは、教師同士のいじめを子どもたちが目撃することです。子どもたちは大人の行動をよく観察しています。教師同士が陰口を言い合ったり、特定の教師を無視したり、あからさまに冷たい態度を取ったりする様子を見れば、「大人もいじめをするんだ」「いじめは仕方ないものなんだ」と学習してしまいます。
教師は子どもたちにとって重要なロールモデルです。その教師がいじめを行っているという事実は、子どもたちの価値観形成に深刻な悪影響を与えます。
いじめ防止教育の説得力の欠如
学校では「いじめは絶対にダメ」「みんなで協力しよう」「相手の気持ちを考えよう」と教えています。しかし、その教師自身がいじめの加害者や傍観者であったとしたら、その教育に何の説得力があるでしょうか。
子どもたちは敏感です。教師の言葉と行動の矛盾を見抜きます。そして、「結局、きれいごとなんだ」「本音と建前は違うんだ」と学習してしまいます。
組織ぐるみの隠蔽体質
教師いじめがなぜ解決されないのか。その背景には、学校組織の閉鎖性と隠蔽体質があります。
「内輪の問題」として処理される現実
教師の職場いじめの相談を受けた管理職の多くは、「内輪の問題」「大人同士のこと」として軽視する傾向があります。「お互い大人なんだから、話し合って解決してほしい」「どちらにも言い分があるだろう」といった対応で済まされることが少なくありません。
しかし、これは完全に間違った認識です。いじめは話し合いでは解決しません。力関係に明確な差があり、一方的な攻撃が行われている状況で、「話し合い」を求めることは、被害者をさらなる危険にさらすことになります。
「波風を立てたくない」という逃避
多くの管理職は、「波風を立てたくない」「穏便に済ませたい」と考えます。職場いじめの問題を表面化させると、教育委員会への報告、保護者や地域への説明、マスコミの注目など、面倒な事態に発展する可能性があるからです。
そのため、被害者に対して「我慢してほしい」「もう少し様子を見よう」「転勤で環境を変えてはどうか」といった、問題の本質から逃避する対応を取ることが多いのです。
しかし、これでは問題は何も解決しません。加害者は処罰されることなく、同じ行為を続けます。そして、新たな被害者が生まれることになります。
加害者擁護の論理
さらに問題なのは、加害者を擁護する論理が働くことです。
「あの人は普段は良い教師だ」「家庭的な事情があって余裕がないのかもしれない」「経験豊富で教育熱心だから、つい厳しくなってしまうのだろう」といった理由で、加害者の行為を正当化しようとします。
しかし、どのような理由があろうとも、いじめは許されません。他の分野で優れた実績があろうとも、家庭的な事情があろうとも、それはいじめを正当化する理由にはならないのです。
被害者の心の傷と人生への影響
職場いじめの真の恐ろしさは、被害者の人生そのものを破壊することにあります。
精神的な破綻への道筋
毎朝、学校に行くのが憂鬱になります。職員室に入るのが怖くなります。同僚の顔色をうかがい、陰口を言われていないか気になって仕方ありません。
「また今日も何か言われるのか」「今度は何を責められるのか」という不安で頭がいっぱいになります。夜も眠れない、食事も喉を通らない、休日も心が休まらない。そんな状態が何ヶ月も続くのです。
やがて、自分自身を疑うようになります。「本当に自分が悪いのではないか」「みんなの迷惑になっているのではないか」「教師として失格なのではないか」と。
これこそが、いじめの最も残酷な側面です。被害者の自尊心を徹底的に破壊し、自分で自分を責めるように仕向けるのです。
教師としてのアイデンティティの崩壊
教師になった人の多くは、「子どもたちの役に立ちたい」「教育に貢献したい」という純粋な動機を持っています。ところが、いじめを受けることで、その根本的な部分が揺らいでしまいます。
「自分は本当に子どもたちのためになっているのか」「こんな自分が教壇に立っていていいのか」という疑念が生まれます。子どもたちの前でも自信を失い、本来の教育力を発揮できなくなってしまいます。
教師としてのアイデンティティの崩壊は、単に職業上の問題ではありません。人生の意味や価値を見失うことにつながる深刻な問題なのです。
本気で解決しようとする覚悟
この状態を分かっていて放置しているのであれば、周囲も問題です。実際にそのような職場もありました。報告して解決に動いた私も干されました。今は、被害者の相談が寄せられています。被害者が孤立無援の状態なのです。
それで良いのでしょうか?それでいて、児童生徒のいじめアンケートは何度も何度も繰り返して、上に報告する。同じではないでしょうか?
ダブルスタンダードの矛盾
学校では子どもたちに対して「いじめは絶対にダメ」と教えています。いじめアンケートを実施し、わずかな兆候でも見逃さないよう努めています。スクールカウンセラーを配置し、相談体制を整備しています。
ところが、教師同士のいじめには無関心です。「大人のことだから」「複雑な事情があるから」と見て見ぬふりをしています。
この矛盾に子どもたちは気づいています。そして、「結局、大人は偽善者なんだ」「いじめ防止なんて建前なんだ」と学習してしまうのです。
傍観者の責任
仲間が理不尽にやられているのです。仲間がいじめの加害者になっているのです。この状態を放置してよいのでしょうか?
傍観者もまた、いじめの共犯者です。「関わりたくない」「面倒に巻き込まれたくない」という気持ちは理解できます。しかし、その結果として被害者が孤立し、加害者が増長していく現実を、私たちは受け入れるのでしょうか。
教師という職業に就いた者として、教育に携わる者として、最低限の良心と勇気を持ち続けることはできないのでしょうか。
まとめ:この腐敗した現実と向き合う
教師いじめの問題は、教育界の恥部です。しかし、恥ずかしいからといって隠蔽していては、問題は永続し、被害者は増え続けます。
現実を直視せよ
私たちが直面しているのは、以下のような醜悪な現実です。
- 加害者は処罰されない
「ベテラン教師だから」「普段は良い先生だから」という理由で庇われ、同じ行為を繰り返す。 - 被害者は孤立する
周囲は見て見ぬふりをし、時には被害者を「問題のある教師」として扱う。 - 管理職は逃げる
「大人同士の問題」として責任を放棄し、本質的な解決を避ける。 - 組織は隠蔽する
外部への報告を怠り、内輪で処理しようとして問題を悪化させる。 - 子どもたちが犠牲になる
質の高い教育を受ける権利が侵害され、歪んだ価値観を学習させられる。
この現実を美化する必要はない。支援だの相談窓口だの、そんな表面的な対策で解決する問題ではありません。
根本的な変革が必要
教師いじめを根絶するために必要なのは、以下のような根本的な変革です。
◆加害者への厳罰主義の導入
いじめを行った教師は、その悪質性に応じて厳正に処分する。軽微な注意や研修では再発を防げない。懲戒免職も辞さない覚悟で臨む。
◆管理職の責任の明確化
いじめを放置した管理職にも責任を問う。「知らなかった」「気づかなかった」は理由にならない。職場環境を整備する責任を果たさない管理職は降格させる。
◆組織の透明化
学校の閉鎖性を打破し、外部からの監視を常態化する。第三者機関による定期的な職場環境チェックを義務づける。
◆被害者保護の徹底
被害者が安心して告発できる環境を整備する。匿名性の保証、報復の防止、精神的サポートの提供を制度化する。
◆教師の意識改革
「いじめは絶対に許さない」という強固な意志を全教師が共有する。傍観者になることの罪深さを自覚する。
最後に
教師の職場いじめの問題に取り組むことは、きれいごとの世界ではありません。加害者からの報復、組織からの圧力、周囲からの孤立を覚悟することも必要です。
しかし、それでもやらなければなりません。なぜなら、教育の未来がかかっているからです。子どもたちの未来がかかっているからです。
いじめを許容する教育現場に、子どもたちを託すことはできない。
この当たり前の事実を、私たち大人が忘れてはいけません。
私も伴走します。
ぜひ、職場いじめ犯罪をなくしていきましょう。