勤務時間中、職員室に響くキーボードの音。一見すると授業準備に励む教員の姿に見えます。しかし、その画面に映るのは「私的な原稿執筆」でした。そして、その人物が放った言葉が「残業する奴って、無能なんだよね」です。
この発言は、現代の教育現場が抱える深刻な構造的問題を象徴しています。
職責を放棄し、税金泥棒を地で行く者が大きな顔をする腐った現実。
「笑わせるな」。そう叫びたくなる現実が、今この瞬間も全国の職員室で繰り広げられているのです。
教育現場に蔓延する特権意識の実態
「あの人だから仕方ない」という病理が教育現場を支配しています。なぜこのような勤務時間中の私的活動が黙認されるのでしょうか。その背景には、教育現場特有の歪んだ「特権意識」があります。
本を出版しているという実績への盲目的な敬意、SNSでの影響力という幻想の権威、管理職との個人的関係というコネクション。これらが、本来なら許されない行為を「見て見ぬふり」で済ませる土壌を作り出しています。馬鹿げています。本を出していようが、フォロワーが何万人いようが、勤務時間中に私的な原稿を書いていい理由にはならないのです。
職専念義務違反。処分です。
職員室の誰もが「おかしい」と感じています。しかし、誰も声を上げません。この集団的沈黙が、問題を深刻化させています。なぜ黙っているのか。それは怒っていないからではありません。諦めているからです。
「どうせ言っても変わらない」
「むしろ自分が悪者にされる」
「面倒なことになるだけ」
こうした思考が、真面目に働く教員を委縮させ、好き放題する教員を増長させています。
教育現場における勤務時間の適正使用は、単なる労務管理の問題ではありません。公教育の質そのものに直結する重大な問題です。税金で運営される公立学校において、教員が勤務時間中に私的な利益追求活動を行うことは、納税者への背信行為でもあります。しかし、この現実が「特権」という名の下に正当化され続けているのが現状です。
特に問題なのは、このような行為を行う教員が往々にして「教育改革」や「働き方改革」を声高に主張していることです。自身は勤務時間中に私的活動を行いながら、他の教員の「非効率性」を批判する。この矛盾した姿勢が、現場の士気を著しく低下させています。SNSでは美しい教育論を語り、多くの人から称賛される一方で、実際の現場では同僚に負担を押し付け、子どもたちを軽視している。この二面性こそが、現代教育現場の最大の病理なのです。
隠された労働搾取の構造
勤務時間中に原稿を書いているその時間、実際の教育業務は誰が担っているのでしょうか。突然の保護者来校への対応、生徒同士のトラブル処理、特別支援児への個別対応、急病の子どもへの付き添い、電話対応を受け続ける作業。これらすべてが「他の教員」に押し付けられています。
つまり、「残業している無能な教員」と嘲笑される人々が、実際の教育現場を支えているのです。この構造は、単なる業務分担の問題ではありません。一人の教員が私的活動に時間を割く一方で、他の教員が過重労働を強いられる。そして、その過重労働を「無能」と嘲笑する。これは明らかな労働の搾取であり、心理的暴力です。
職責放棄教師が美しい文章を一行書く間に、誰かが汚れ仕事を引き受けている。職責放棄教師が「効率的な働き方」を自慢している時に、誰かが血反吐を吐きながら現場を回している。その現実に、どうして平気でいられるのでしょうか。腐りきっているからこそ、平気でいられるのでしょう。
特別支援学校の主任教員が語ってくれた体験談があります。授業も、支援も、連絡調整も、すべてを抱えて働く日々。一人の子どもに向き合うために、朝7時から夜9時まで学校にいる。それが当たり前だと思って働いてきた。その横で、毎日原稿を書いている同僚が「まだ残ってるの?要領悪いよね。残業してる人って、だいたい効率悪いだけなんだよ」と言い放ったのです。
彼女はその場で言い返さず、ただ笑って流しました。しかし、夕方、誰もいなくなった職員室で、机に顔を伏せて泣いていました。肩が震えていました。声は出しませんでした。誰にも気づかれないように、静かに、静かに、涙を流していました。
「自分が間違ってるのかなって思ったんです。無駄な努力だったのかなって、初めて、思ってしまった」。
そう話す彼女は、次の日も朝一番に出勤し、何もなかったように、また現場に立ちました。これが、「無能」なのでしょうか。
新任教師からも声が届いています。「先輩の先生が、授業中にスマホで原稿の校正をしているのを見ました。生徒たちは気づいていないと思っているようですが、みんな知っています。『あの先生、また本の話してる』って。でも、その先生は職員会議で『最近の若い教師は情熱が足りない』と言うんです。何が情熱ですか」。希望を持って教職に就いたのに、現実は理想とかけ離れていたのです。
保護者からの困惑の声もあります。「担任の先生が、面談中にパソコンを開いて何かを打っていました。うちの子の話を聞いているのか分からなくて。後で知ったんですが、その先生は本を出版されている方で、忙しいんだそうです。でも、それなら面談の時間くらいは集中してほしいです」。子どもの教育に真剣に向き合ってほしいと願う親の心を、どう考えているのでしょうか。
管理職の対応も問題です。「知っているんです。でも、あの先生は実績があるから。保護者からの評判もいいし、本も売れているし。問題にするほどのことではないと思っています」。これが現場の校長の実態です。組合も何をしているのでしょうか。このような労働環境の不公正を見過ごしていて、組合の存在意義はあるのでしょうか。まともな組合もあるし、まともな組合員もいます。しかし、法を破り、遊んでいる者と繋がるものもいるのが現実です。
教育現場における業務の不平等分担は、単に個人の負担の問題ではありません。教育の質そのものに影響を与える深刻な問題です。一部の教員が私的活動に時間を割くことで、本来その教員が担うべき教育業務が他の教員に転嫁される。結果として、過重労働を強いられた教員は疲弊し、最終的には子どもたちへの教育の質が低下します。この悪循環を断ち切るためには、管理職の意識改革と、組織全体での業務分担の透明化が急務です。
子どもたちが見ている現実と失われる信頼
「先生、また本の話?」生徒たちは見ています。授業中にスマホで原稿をチェックしていることも、面談中にパソコンを叩いていることも、すべて見ています。そして、こう思っているのです。「大人って、嘘つきだな」。
教育の基盤は信頼関係です。しかし、その信頼が日々、削られています。
「先生は自分のことしか考えていない」
「勉強しろと言うけど、先生だって勤務時間中に関係ないことをしている」。
子どもたちのこうした声を、どう受け止めるのでしょうか。
教職は個人の自己実現の場ではありません。子どもたちの成長を支える神聖な職業です。よく聞く言い訳があります。
「原稿は将来の教育のため」
「この発信が、きっと子どもの未来を変える」
ちゃんちゃらおかしな話であり、言い訳でしかありません。今、目の前の子どもから目を逸らしながら、未来の話をするな。
職責放棄教師のその原稿に、何人の先生が泣かされてきたか。あなたの「かっこいい働き方」の陰で、何人の教員が尻を拭いてきたか。職責放棄教師の”合理的勤務”の裏で、どれだけの人が心をすり減らしてきたか。その全部に、目を向けてから、原稿を書け。
教員は公務員です。勤務時間中は、公務に専念する義務があります。これは法的な義務であり、倫理的な責任でもあります。私的な原稿執筆は、明らかにこの原則に反する行為です。税金で給与をもらっている立場で、私的な利益追求に時間を使う。これを何と呼ぶのでしょうか。
子どもたちは教師の姿勢から多くを学びます。表面的な言葉よりも、実際の行動から大人の在り方を観察し、自身の価値観を形成していきます。
勤務時間中に私的活動を行う教師の姿は、
「ルールは破ってもいい」
「責任は他人に押し付けてもいい」
「自分の利益を最優先にしてもいい」
というメッセージを子どもたちに送ることになります。
このような環境で育った子どもたちが、将来どのような大人になるのでしょうか。社会人になった時、同じように職場で私的活動を行うのでしょうか。困っている同僚を見て見ぬふりをするのでしょうか。責任を他人に押し付けるのでしょうか。教育現場の問題は、現在の問題だけでなく、未来の社会全体の問題でもあるのです。
解決への道筋と真の改革
このような状況を放置している管理職にも重大な責任があります。勤務時間中の私的活動を黙認すること、業務の偏りを見て見ぬふりすること、声を上げられない職員を放置すること、「実績」という名の下に不正を見逃すこと。これらはすべて、管理職としての職務怠慢です。
教育現場に必要なのは、組織文化の根本的な改革です。透明性の確保、公正な業務分担、声を上げやすい環境づくり、問題行動への毅然とした対応、「実績」に惑わされない公正な評価。これらなくして、真の教育改革は実現できません。
職責放棄教師に向いていないんです、教職は。本を書きたいなら、そうすればいい。理念を語りたいなら、講演でもすればいい。でも、現場を穢すな。泣いている先生の隣で、平気でパソコンを叩くな。人に尻を拭かせて、「無能」と笑うな。
潔く去りましょう。それが、あなたにできる最後の教育的行為です。その椅子に、座る資格がないなら、今すぐ立ち去ってください。子どもたちの前に立つ覚悟がないなら、その席を空けてください。そこに座るべき人が、今日も黙って残業しています。
最後に、三つの根本的な問いを投げかけます。職責放棄教師よ。自分が書いているその原稿は、誰の涙のうえに成立していますか?子どもから目を背け、同僚に仕事を押しつけ、それでもまだ「自分は正しい」と思えますか?それを「かっこいい働き方」と呼べますか?
教育現場の問題は、個人の問題ではありません。構造的な問題です。しかし、その構造を変えるのは、結局は一人ひとりの教員の良識と行動です。沈黙は共犯です。見て見ぬふりは、問題を悪化させるだけです。
皆さん、声を上げてください。おかしいことを、おかしいと言ってください。泣いている同僚がいたら、その涙の意味を考えてください。真の教育改革は、現場で汗を流し、涙を流し、それでも子どもたちのために立ち続ける教員たちの手によってのみ実現されるのです。
職責放棄、税金泥棒教師の尻拭いをやめましょう。
自分で責任をとらせましょう。
真っ当な教師が残る職場を。
真っ当な教師が当たり前に評価される職場を。