こんにちは。先生のための働き方コーチ・平田洋典です。

平成もそろそろ終わりますね。それと合わせるかのように、「松坂世代」の実績のあるプロ野球選手が複数引退を表明しました。

「松坂世代」と括られて表現されきた選手たち。そこに、去来するものは・・・

なんて話ではなく、「松坂世代」という言葉を最近多く耳にしたので、教師の世代間のギャップから始めて、学校で生じる他のギャップをクローズアップし、ギャップを埋める働き方を整理していきます。

ギャップはあって当然。それでも結束する教師集団

教師の世界でも、「若手」、「中堅」、「ベテラン」という言われ方が定着しています。それぞれのジェネレーションギャップがあるのは当然でしょう。ただ、これは、「世代、年齢によるもの」と割り切ることが容易です。

ジェネレーションギャップの他に、学校で起きるギャップとして、「教育理念」によるギャップがあります。こちらの方が、問題としては大きいです。

これらのギャップを認めた上で、それでも結束をする教師集団には、ある共通する想いがある気がします。その想いがあれば、「チーム」としてまとまることができます。

ジェネレーションギャップ

単純に年代によるギャップは、どの職業でもあります。親子関係でもあるでしょう。

教師の世界で言えば、・・・

・雑巾の絞り方が分からない
→小、中、高と清掃を業者に外注している私立学校だった場合、分からないのも不思議ではありません。公立だっとしても、雑巾代わりにモップを使用していた場合や、さぼっていた場合も・・・分からないですね。

一定以上の世代だと、学校で雑巾を使用しなかったりしても、家庭では手伝いをするのが当たり前という背景があり、雑巾の絞り方や使用方法は分かることが多いと思われます。

・辞書がわりにスマートフォンで調べる、インターネットで調べる
→これは、最初は若い先生が主流だったと思いますが、情報科や情報機器に詳しい先生は年配でも使用されることもあるでしょう。

他にもありますね。

ただ、これらがもとで険悪になることや、業務に支障をきたすことはほとんどないように思います。

理念に基づくギャップ

教育現場には、様々な「指導法」があります。

ここでは、教科ごとの細かい指導方法ではなく、もう少し大きな枠で捉えています。例えば、

・ろう学校での、手話による教育、口話による教育

・知的障害特別支援学校での「生活中心主義でいくか、教科も必要か」の議論

・ICT賛成派、否定派閥

・アセスメントに知能検査を用いるかどうか

等々

これらは、それぞれに「理念」があるため、対立したら厄介です。

ギャップが生み出す問題

理念に基づくギャップが生み出す問題は、自身が推す方法と逆の考え方で指導する教員を、「敵」とみなすようになることなどが最たるものです。やることなすことが許せず、人格否定に走ったりするケースもあります。

そこに、発言力などのパワーバランスが働いた場合、教師いじめにつながる危険性すらあるのです。

自分の指導理念、指導方法が唯一絶対と思い込み、そこへの意見を許さない人、あなたの職場にいませんか?

違う校種から来た(例:知的障害特別支援学校→肢体不自由特別支援学校 / 肢体不自由特別支援学校→ろう学校)校長の場合、このような教師に注意をすることができません。管理職にも、「あなたに何が分かる!?」というような雰囲気を醸し出しますし、実際、周囲も従っているように見えるからです。表向きだけですが・・・。

理念云々は関係なく、社会人として、人として問題があれば、せめて管理職は注意するのが筋ですが、このようなケースの場合、ほとんど見て見ぬふりです。もしくは、猫なで声で遠回しに言う程度ではないでしょうか。現に、そのような態度を改めていないということが全てを物語っていることでしょう。

個々が持つ信念を大切に

そもそも、唯一無二の指導法など存在しないと思います。だからこそ、いろいろな指導方法をもとにした実践を積み重ねて検証し、まとめ、発表し、フィードバックが行われているのです。

もし、唯一無二の指導法があれば、全ての児童生徒をより良い方向に導けるはずです。しかし、それは難しい。

だからこそ、いろいろな信念を持った教師が必要でしょうし、いろいろな指導法で教育実践を積み重ねる必要があるのではないでしょうか。

個々のギャップを埋めるのは「共通の想い」

異なった信念、指導法があるのを認めるだけでは、統一がとれません。個々が勝手なことをやっていては、組織は成り立たず、児童生徒、保護者は混乱してしまいます。

では、理念に基づくギャップを前提に、教師集団がまとまるために必要なものは何でしょうか。私は、「児童生徒のために」という共通の想いだと考えます。

個々の教育理念には、「どのようにして目の前の児童生徒の成長に結び付けるか」というベースがあります。そこの確認がとれていれば、自分と違う理念、指導法に対しても寛容になれるように思います。そこを否定することはなくなります(ただ、人格を否定するような理念、指導法:〈暴言や体罰に結び付くもの〉は別です)。

うまくいっている組織は、この点が守られています。しかも、「児童生徒のために」という力みが、前面に出てきません。ごく自然に、児童生徒のための教育実践が積み重ねられています。

よく、「『子どものために』が教師を追い詰める」という言い方が、長時間労働批判の文脈で使われます。この場合、統率が取れていない中で、一部教師が無理に自己の主張を通そうとする際に、「これが子どもたちのためになるんです!」というような言い方をしているのではないかと、私は考えます。我を通そうとする以上、共感は生まれにくいものですね。

さておき、教育は、子どもたちの「人格の完成」を目指して行われます。そこに、「子どものため」という姿勢が必要になるのは、自然のような気がします。

難しいことではなく、「何のために」ということを考えた場合、やはり、そこには「児童生徒のため」という理念・想いが根底にあるのではないでしょうか。

何のために教科指導をするのか、何のために行事指導をするのか、シンプルに考えた時に何が浮かびますか?
やはり、目の前の児童生徒の成長であるように、私は思います。

個々の教師集団が、互いを認められなくなった時、組織として立ち返る場は、「児童生徒のために」という共通の想いではないでしょうか。

教師も人です。人である以上、成育歴、教育歴、思想・信条も様々。それでも、教師として児童生徒の前に立つ以上、共通の目的、共有できる想いを確認して、組織の一人として職務にあたるのが良いと、私は考えます。

それが、教師として力みのない働き方につながっていくのではないでしょうか。

ギャップがもとで、互いの関係が悪くなった際に参考にしていただけると幸いです。
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