こんにちは。先生のための働き方コーチ・平田洋典です。先日まで、世界柔道で日本を応援していました。そして、ある思いが強くなりました。
それは、「JUDO」が定着したなということです。様々なルール改正がなされて、日本発祥の「一本」をとる「柔道」ではなくなったと実感しました。
専門家ではないので、詳細に言うことは憚られるのですが、ポイント重視の「JUDO」は、見ていて少々違和感がありました。(良し悪しの問題ではありません)
日本は「JUDO」というスポーツで勝つことにかなり苦戦を強いられてきている感があります。それでも、日本の威信をかけて闘う姿に心を打たれました。
しかし、その過程で、ルール改正に順応できずに、代表選考等から漏れる選手もいます。本来の「柔道」を求道するあまりに、晴れの舞台に上がれない・・・。「柔道」は強いが「JUDO」では勝てない・・・。
なんだか、私は割り切れません。
同じように、現在の「教育改革」を見ていると、教育が「KYOUIKU」に変わっていくような気がしてくるのです。ポイントならぬ「時間」をはじめとした数値で管理していく流れ・・・
ここに違和感があります。
今回は、この違和感をもとに、今後「改革」が進むことで懸念されることを挙げた上で代案を示したいと思います。
腰を据えた教育に必要なこと
今の流れでいくと、週、もしくは月の残業時間の上限が設けられることでしょう。上限を超えても罰則はありませんが、残業を繰り返すと、職同僚から刺さる視線を感じるようになることが予想されます。
時間に合わせてできることをやる。やるべきことではなくできることをやる。その結果、児童生徒に必要なことではなく、時間内でできることが展開される。
今学校現場に必要なのは、このような教師の労働時間管理ではなく、安心感のある同僚性をもとにした労働環境です。
タイムカードの功罪
労働時間管理に欠かせないのはタイムカードでしょう。私も経験しました。
タイムカードの利点は、数字で労働時間を管理できることだと思います。
しかし、学校にタイムカードを導入することのマイナス面も複数あります。以下に挙げてみます。
・通し忘れると、紙に理由と実際の出退勤時間を書かされる。
→ しかも、机上に黙っておかれていると、風で飛ぶことになります。そうすると、管理職から「まだ?」との声が。身に覚えがない教師は、「何のことですか?」。コントにもなりません。
そして、この紙を準備配布するのは副校長であることが多いです。さらに、副校長の無駄な作業が増えてしまいます。
・勤務時間を守って退勤したにも関わらず、タイムカードの時間がずれていて「勤務時間より早く帰ったでしょ」と指導が入る。
→保育園のお迎えがある先生の場合、秒単位の勝負です。しっかりと時間を見て、勤務時間終了と同時に職員室を出て昇降口へ。タイムカード押して保育園へ。
しかし、翌日、管理職から、「昨日、2分早く退勤していますね。年休処理してください」との指導が、なんてこともあります。職員室の電波時計と自身の腕時計でしっかり確認したにもかかわらず、このようなことを言われるのは不愉快極まりないことですし、時間の無駄でもあります。当然、副校長にとっても時間の無駄です。管理をタイムカードという機械に委ね、信じ切るとこのようなことが起きます。機械に振り回される現実。
・家庭で持ち帰りの仕事をしている先生と、職員室で数時間私語に興じる先生の区別がつかない
もし、タイムカードによる時間管理と並行して残業代も出るようになったら・・・
摩訶不思議なことが起こります。
A先生・・・保育園のお迎えがあり、退勤時間丁度に帰る。よって、残業代なし。しかし、家庭で、授業準備を3時間行う。
B先生・・・勤務時間後、職員室で、同僚と話すのが楽しみ。退勤後数時間残るので残業代は出る。
C先生・・・勤務時間後、休憩室で1時間の仮眠をとるのが日課。退勤後数時間残るので残業代は出る。
おかしいですよね。このようなことが起きるので、残業代を出すのであれば、それなりの覚悟を持って、精査できるようなシステムを作ってください。お願いします。
そもそも給特法で残業を見込んだ一定の割増の給与をもらっているわけです。職責を果たさなくてももらえるという恐ろしい一面もあるのですが。
この給特法を改正して残業代につなげるのであれば、本当に残業代を支払うべき先生方に支払われるようにしていただきたいと考えます。
教師の仕事は時間では割り切れない
教師の仕事は、数値では割り切れません。
目の前の生徒が相談に来たら、時間外でもできる限りの時間を使います。また、欠席が続いている生徒がいれば、電話や手紙、また家庭訪問もします。行事関係の渉外の仕事も時間外で入ることもあります。
私は思うのです。このような仕事を、先生方は面倒くさがっているのでしょうか?少なくとも、多くの先生方は、やりがいとして受け止めて日々職責を果たしています。
特別なことではなく、日々の授業をしっかりと行い、質問に来た生徒には時間外であってもしっかりと答える。生徒の成長につながるようにと、修学旅行の計画も数十枚の書類を作成するのです。
A先生は17時まで。B先生は18時まで。C先生は20時までなどという割り振られ方はあり得ないわけです。家庭の都合がある先生は早く帰る。仕方がありません。約束がある先生も早く帰る。仕方ありません。
そのような中で、お互いに助け合ってできることを粛々と積み上げていくのが同僚としての在り方であるような気がするのです。国や自治体から働く時間を決められてしまえば、その中でできる活動をするしかなくなります。それは、まさに「KYOUIKU」ではないでしょうか。数値・ポイント重視の活動。そこには児童生徒の姿は見えません。児童生徒と教師の1対1の関係から生まれる熱量が感じられません。
時間ではなく感情
教育は「今日行く」と言い換えることができると思います。「今日」を「今」に、「行く」を「やる」にしても良いでしょう。
生徒のいじめの案件が発覚した週末。「今週は残業時間があと1時間だから、話し合いはできないな」となってよいのでしょうか?
そこは、「いじめは絶対に許されない」という認識のもと、発覚した時点で、少なくとも事実関係把握の流れと担当者を決めるのではないでしょうか。そこに流れているのは「感情」です。
教師は、やはり「想い」があってこそ、児童生徒を動かす原動力になるように思います。授業の指導技法、集会での指示の出し方などのスキル的な面も、「それを習得して、子どもたちにより良い学習機会を保障したい」との「想い」があるからこそだと思うのです。
生徒指導案件が浮上したその日、その時に動く。
生徒が辛そうだったら、その日、その時に相談に乗る。
生徒の欠席が続いて、「今日を外したら大変なことになる」と考えたその日に行く。
初任の先生の様子がおかしい、と気付いたその日、その時に声をかける。
教育は、教師一人一人の「想い」と「行動」があってこそのものではないでしょうか。
情報にのまれない
教師の時間管理とともに語られる「部活動問題」。それに関して、最近も「部活しかやらない迷惑教師」という文面を目にしました。「そうだ、そうだ」の大合唱が上がっている面もあるでしょう。
確かに、そのような教師もいます。しかし、経験上言えること、見聞も含めて言えることがあります。それは、以下のような教師の存在もかなりあるという現実です。
・「部活動も授業もやらない教師」(※授業をやらない=適当。ブラッシュアップしない。学校の方針に従わない)
→職場の仕事の偏りを招く大きな要因です。なぜか、普通に教師を続けています。
・「授業しかやらない教師」
→「何が問題だ!」と思われる方もいるかもしれません。問題なのは、分掌や行事担当を一切やらない教師が存在します。授業の面だけで崇められることもありますが、組織で職責を果たす同僚にしわ寄せが行っているのはいうまでもありません。また、このような存在も職務の偏りの一員です。
・「担任をやらない教師」
→特別な理由なく、担任をしない人もいます。それでも給料は基本的に経験年数で決まりますので・・・。
担任をやることが偉いと言いたいのではありません。一人のわがままのせいで、誰かが尻ぬぐいをしているということを主張したいのです。特に、真面目な女性の先生が被害を被ります。担任を続けてきて次年度は降りて、介護に集中したいと考えてもできない人もいます。出産に関して辛い思いをしている先生もいます。
要するに、現在の潮流に乗った報道が出た時に、多面的な視点を持つことが必要だということです。特に、被害を被っている先生は声を上げて良いと思います。自分は少数派で、世の中の流れに反しているかも、と思う必要はありません。少数派と思っている先生の考えを出すことで、問題の核心は見えてきます。
いろいろな状態の教師が混在しているわけです。しかし、どれも法律を犯しているわけではない。だから、仕事は続けられるために、問題であることに自分自身が気付かない。本当に根は深く、一面的な情報を流すだけで解決できるような問題ではないように思います。
安心感のある職場に
教師の「働き方改革」が叫ばれる前から、長時間働く先生はいたし、時間ぴったりで退勤する先生はいました。しかし、バランスはとれていた面があるように思います。
その理由は、長時間働いている先生方の「脅威」がなかったからではないか、と考えます。
管理職・同僚の圧力、保護者の圧力、社会の圧力・・・、現在教師にとって、一つのミスで人格を否定されてしまうような状況が身近にあるのではないでしょうか。
確かに、以前も圧力はあるにはあったことでしょう。当然ですね。ただ、それが「脅威」となることは少なかったのではないでしょうか。その理由を2点挙げます。
➀圧力が「一気にくることはなかった」
→
管理職が圧力をかけても、同僚とはうまくやれることが基本だった。
保護者が圧力をかけてきても、その程度がひどくはなかった。
➁同僚性があった
→
一人の教師に関わってくる同僚が多かった。その中で、厳しいことも言われるが救われることもあった。
やはり、何らかの「逃げ場」があったことが重要です。
今は、先生方の心のゆとりが失われています。その根本要因を明らかにしていくことが求めれます。
ゆとりある同僚に囲まれれば、安心感が生まれます。生徒とトラブルになっても、保護者とトラブルになっても「自分は一人ではない。〇〇先生に相談してみよう」となるはずです。
社会の目を変えて、ゆとりが持てれば、同僚性も少しずつ戻るかもしれません。
社会が厳しいままであれば、職場を抜本的に改善する必要があります。なぜ、仕事が一部の教師に偏るのか。職責を果たさずにいる者に踏み込むことは不可欠です。そうすることで初めて、「教師の仕事量は多いかどうか」の議論ができるように思います。
苦しんでいる教師がいれば誰かが寄り添うような安心感のある職場が、一人一人を大切にする職場だと考えます。また、そのような職場にしていくことこそが、本当の意味での「働き方改革」であるような気がします。
繰り返しになりますが、同僚に寄り添う余裕が持てない職場であれば、一人一人の職務内容と量を確認して、偏りを無くし、物理的な「脅威」をなくすことが必須になると考えます。