帰省中の私が母校の小学校近辺を散歩していると、毎日のように心温まる光景に出会います。小学生や中学生が元気に遊び、部活動の自主練習に励む姿があります。そして何より印象的なのは、通りすがりの地域の高齢者が子どもたちに自然に声をかけ、それに笑顔で応える子どもたちの姿です
この何気ない日常の光景を見ていて、私の心に深く刻まれている一つの言葉が鮮明に蘇りました。それは、人生の軌道を決定づけた言葉でした。
「この子らを世の光に」
目次
糸賀一雄氏の革命的な視点転換が示すもの
この言葉は、「障害者福祉の父」と呼ばれる糸賀一雄氏の名言です。知的障害者が「精神薄弱者」と呼ばれていた暗い時代、社会の多くの人々は「この子らに世の光を」という同情的な視点で障害のある子どもたちを見ていました。慈悲の対象として、保護すべき存在として捉えていたのです。
しかし糸賀氏は、社会の固定観念を根底から覆す全く違う視点を提示しました。「この子らを世の光に」-つまり、どのような困難を抱える子どもたちであっても、必ず社会を照らす輝きを内に秘めており、その子たち自身が社会の希望となりうるという革命的な人間観でした。この一言は、障害者観の歴史的転換点となったのです。
私の人生を変えた運命的な出会い
高校3年生だった私が、大学受験の小論文対策として手に取った一冊の本の中で、この言葉に出会った瞬間の衝撃は今でも鮮明に覚えています。活字が目に飛び込んできた瞬間、まるで雷に打たれたような感覚でした。偶然目にした言葉でしたが、今振り返れば必然だったように感じています。
教師になってからは、どの校種に赴任しようと、どの学校に配属されようと、常にこの言葉を心の奥底に刻み込んで指導にあたってきました。障害があろうとなかろうと、どのような複雑な家庭環境で育ってこようと、どれほど個性的で扱いにくいと思われる性格であろうと、目の前の子どもたち一人ひとりに必ず存在する輝きを見つけ出し、それを社会に向けて放つ手助けをする。それが私にできる唯一にして最も重要な使命だと信じてきました。
新たな使命の発見:「教師は世の光である」
そして長年の教師生活に区切りをつけ、教育現場を離れると決意した時、私の胸には新たな言葉が浮かんでいました。それは糸賀氏の言葉に呼応するかのように、自然に心の中で形作られた確信でした。
「教師は世の光である」
そうです。子どもたちを世の光にするために日々奮闘する先生方もまた、間違いなく社会を照らす光なのです。社会の希望である先生方の力になりたい、その光をより強く輝かせるお手伝いをしたい。そう強く決意したのです。
子どもの輝きを見出す教師の卓越した専門性
現代の教室には、実に多様で複雑な背景を持つ子どもたちが集まります。様々な成育歴を経て、異なる教育的経験を積み重ね、それぞれ独特な性格と個性を持った子どもたちです。この一人ひとりの心に響く教育を実現するために、先生方は毎日のように創意工夫を重ねています。
同じ指導の言葉であっても、ある子には深く響き、別の子には全く伝わらないということが日常茶飯事です。それでも先生方は諦めることなく、より良い教育の実現を目指して、試行錯誤を繰り返しながら実践を積み重ねています。この地道で献身的な取り組みこそ、まさに「世の光」そのものなのです。
子どもたちを輝かせるために尽力する先生方の専門性は、単に教室内だけに留まるものではありません。今日先生によって輝きを見出された子どもが、明日の社会を支える貴重な人材となります。そして将来、その子がまた別の誰かを輝かせる存在になるのです。この連鎖こそが、社会を明るく照らし続ける原動力となります。
私は確信を持って、声を大にして言いたいのです。「先生方は世の光です」と。
厳しい現実:ズタズタになる教師の心身
しかし一方で、現実は非常に厳しいものがあります。子どもたちのために心血を注いで日々実践を積み重ねても、様々な方面から容赦ない批判を浴びせられる事例が後を絶ちません。保護者からの理不尽な要求、同僚からの心ない言葉、そして社会全体からの一方的で建設性のない批判。
特に近年では、ちょっとした言葉尻を問題視されて、その教師の人格まで否定するかのように徹底的に貶められるケースが珍しくありません。SNSの普及により、一度火がつくと瞬く間に拡散し、取り返しのつかない事態に発展することもあります。その結果、心身ともにズタズタになってしまう先生方が全国各地で増え続けているのが現状です。
この状況の深刻さを理解するために、一つの視点から考えてみましょう。心ある教師一人が現場から去ることの社会的損失は計り知れません。単純に考えても、その教師が担任する40人の児童生徒が、光となる機会を奪われる可能性が高まります。逆に言えば、心ある教師が一人現場に残ることで、40人の児童生徒が光となる可能性が飛躍的に高まるのです。しかもこれは1年間だけの話であり、その教師の教職人生全体を考えれば、影響を受ける子どもたちの数は何百人、何千人にも及びます。担当授業のことを考慮すれば、さらに多くの児童生徒の人生に深い影響を与える機会に関わってくるのです。
全国各地で教師という光が次々と消えていく現状を、私たちは決して看過してはなりません。
教師一人ひとりが背負う固有の闘い
先生方が日々背負っているものは、一人ひとり全く異なる重さと性質を持っています。高齢の親の介護をしながら教壇に立つ方もいれば、まだ幼い我が子の子育てと教師の仕事を両立させようと必死に奮闘している方もいます。教職についたばかりの初任者として、毎日が学びと発見と失敗の連続である方もいれば、教務主任として学校運営の重責を担いながら子どもたちと向き合っている方、管理職として学校全体の舵取りをしながらも教育への情熱を失わない方もいます。
一人ひとりが、それぞれに与えられた環境と条件の中で、子どもたちと真摯に向き合い続けています。先生方一人ひとりが、自身に課せられた固有の闘いを生きているのです。そこには他者には理解し得ない苦労と喜び、挫折と達成感が入り混じった複雑で深い物語があります。
環境やパーソナリティ、置かれた状況が異なれば、同じ児童生徒を受け持ったとしても、彼らとの関係性や反応は必ず異なります。その中で、子どもたち一人ひとりの心に寄り添い、適切な指導を行い、健全な成長を促していくのが教師という仕事の本質です。だからこそ、教師の価値や能力を他者と単純に比較することには全く意味がないと私は確信しています。
比較という暴力が教師を潰すメカニズム
教師の成長と向上を考える上で重要なのは、「他者との比較ではなく、昨日の自分との比較」です。これは教育の場に限らず、人間の成長全般に言えることでもあります。とはいえ、一般企業であれば昇進や昇格のために同僚との比較は避けて通れない現実があることも理解できます。
教師も年度の始まりには、児童生徒や保護者から「去年の担任は〜だった」「前の先生は〜してくれた」などと比較されることが少なくありません。しかし、これは教師にとって想定内の事象であり、適切なコミュニケーションと誠実な対応によって乗り越えることができる範囲の課題です。むしろ、このような状況にどう対応するかも教師としての重要な力量の一部と言えるでしょう。
真に問題となるのは、同僚からの破壊的な比較です。「〇〇先生の学年は、うちの学年と比べてだらしないね」「あの先生はいつも早く帰るから楽でいいよね」「同じ学年なのに、なぜこんなに差があるんだろう」といった類の発言を耳にしたことはないでしょうか。
このような単純で表面的な比較は、多くの深刻な問題を引き起こします。まず、比較される側に強い反発とやる気の減退をもたらします。さらに、子どもたちの実態や置かれた状況の違いを完全に無視した不公平な評価となります。指導の積み重ねによって実現された改善や成長を全く評価しない近視眼的な判断でもあります。そして何より、職場の同僚性を根底から破壊し、特に経験年数に差がある中でのこうした比較は、若手教師の心を深く傷つけ、最悪の場合は教職からの離脱を招きかねません。
もし同僚に何かを伝えたいことがあるならば、「〇〇のような方法も効果的かもしれませんね」「こんなアプローチはいかがでしょうか」といった建設的で支援的な言い方があるはずです。破壊的な比較ではなく、建設的な提案と相互支援こそが、真に子どもたちのためになる職場環境を作り上げるのです。
解決への道筋:「ありがとう」を職場文化に根付かせる
私は現在の厳しい状況を打破するために、職場にある言葉を意識的に広めることを強く提唱したいと思います。その言葉とは「ありがとう」です。
学校行事の単元責任者や研究主任などになれば、事業完了後の打ち上げなどで同僚から労いの言葉をもらう機会もあるでしょう。そのような特別な場面でのみ交わされる感謝や労いの気持ちを、日常の職場環境に自然に持ち込むことができれば、学校という職場の雰囲気は劇的に変化するはずです。
会議の司会を務めてくれた同僚、資料の準備に時間を割いてくれた方、急な授業の代替を引き受けてくれた先生、職員室の環境を整えてくれる方、何気ないゴミ捨てまで含めて、日常の様々な行為に対してお互いが自然に「ありがとう」と言葉に出す職場環境を意識的に作り上げていくことで、確実に状況は改善されると確信しています。
「ありがとう」という言葉には、相手の存在と行為を肯定する力があります。誰かの役に立っているという実感を与える力があります。自分の小さな行為であっても、それが確実に誰かのためになっているという認識を持たせる力があります。
日々の教師としての職務が確実に子どもたちや同僚、学校全体の役に立っているにも関わらず、否定的な比較や批判にさらされ続ける先生方は、どうしても自己肯定感が低下してしまいます。すると、暗い表情でイライラした状態で子どもたちの前に立つことになります。子どもたちにしてみれば、なぜ先生が不機嫌なのか理由が分からず、不信感や不安感が生まれます。その結果、教師も子どもたちの反抗的な態度にさらにイラつき、関係がより一層悪化するという負のスパイラルに陥ってしまうのです。
このような不幸な連鎖を断ち切るために、まずは「ありがとう」という感謝の気持ちを同僚に対して素直に表現することから始めてみませんか。
孤立する先生方への揺るぎない支持
今この瞬間、職場で孤立感を味わっている先生方に心からお伝えしたいことがあります。他の誰があなたを認めてくれなくとも、理解してくれなくとも、私はあなた方を心の底から支持し、応援しています。
なぜなら、先生方一人ひとりが日々戦っている闘いが、どれほど大きな労力と精神的負担を伴うものかを深く理解しているからです。それが児童生徒のためであるならば、時間も労力も惜しまずに取り組んでいらっしゃる姿を、痛いほどよく知っているからです。先生方が子どもたちの中に眠る可能性を引き出し、それを輝かせることで、最終的に社会全体がより良い方向に向かうということを確信しているからです。そして何より、先生方こそが真に世の中を照らす光であることを、疑いもなく信じているからです。
自分自身を認める勇気を持ってください
私が認めるかどうか、支持するかどうかは、実は重要なことではありません。最も大切なのは、先生方ご自身が、ご自分の価値と意義を正しく認識することです。
先生方、どうか、ご自分だけは必ずご自分を認めてください。
先生方の存在は、この世界にとってかけがえのない光です。これは何かと比較してそうだと言っているのではありません。他の職業と比べて価値があるとか、他の教師より優れているとか、そういう相対的な評価の話ではないのです。
先生方の日々の取り組み、その存在そのものが、絶対的な価値を持つ光なのです。
結びに:教師という光を絶やさないために
「この子らを世の光に」という糸賀一雄氏の革命的な言葉から始まった私の教育に対する考え方は、長い年月を経て「教師は世の光である」という揺るぎない確信へと発展しました。
子どもたちが持つ無限の可能性を信じ、その輝きを見出すために日々奮闘する先生方こそ、社会にとってかけがえのない宝であり、私たちの未来への希望そのものです。困難な時代だからこそ、この光を決して絶やしてはなりません。
すべての先生方へ心からお伝えします。あなたは世の光です。あなたの存在そのものが、子どもたちの未来を明るく照らしています。どんなに困難で理不尽な状況に直面しても、その光を絶やさないでください。なぜなら、私たちの社会には、あなた方教師という光が絶対に必要だからです。