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一冊の本が教えてくれた管理職の本質
渡辺和子氏の『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎)を、私は教師生活の最後の2年間で繰り返し読み返しました。単なる自己啓発書として読むのではなく、教育現場における管理職の在り方を問い直すための指針として、このタイトルが私の思考の中核に根を張ったのです。
教師という職業には様々な立場があります。学級担任、教科担当、生徒指導主事、そして校長。それぞれが「置かれた場所」で最善を尽くすことが求められますが、中でも校長の責任は格別です。なぜなら、校長が「どう咲くか」によって、その学校で働くすべての教職員の人生が左右されるからです。
校長職への道程―経歴ではなく資質が問われる時代
校長になる人の経歴を大別すると、教諭時代から卓越した指導力を発揮し、自然な流れで管理職となった人と、教諭としての指導に限界を感じて管理職の道を選択した人に分けられます。前者は理想的に思えますが、後者を問題視する声もあります。
しかし、この二分法的な捉え方こそが、教育界の古い体質を象徴しているのではないでしょうか。
新しい管理職像の台頭
現在、多くの自治体では30代での管理職登用が進んでいます。「指導主事→副校長→校長」というコースを経て、40代で校長に就任することも珍しくありません。この制度に対し、「児童生徒を直接指導した経験が少ない」という批判があることも事実です。
しかし、ここで問うべきは経験の量ではなく、質なのです。
現代企業に学ぶ経験と資質の関係
IT業界では、プログラマーとしての経験が浅い人材が、優れた経営者として成功を収める例が珍しくありません。彼らが重視するのは、技術的な細部よりも市場全体を見渡す視野、適材適所の人員配置、そして顧客のニーズを的確に把握する洞察力です。
実際、ある大手IT企業の社長は、エンジニア経験わずか3年で経営陣に抜擢されました。当初は技術者からの反発もありましたが、彼は各部署の専門家の意見を丁寧に聞き、データに基づいた合理的な判断を重ねることで、会社を業界トップクラスまで押し上げたのです。
これは学校経営にも通じます。教室での指導経験の長さよりも、組織全体を見渡す視野、人材を適切に配置する判断力、そして何より教育の本質を理解する深い洞察力こそが、校長には求められるのです。重要なのは、専門家(教師)の声に耳を傾け、データや事実に基づいて判断する姿勢なのです。
リーダーシップの本質―権威ではなく責任の体現
校長職の本質は、権威の行使ではありません。それは責任の体現です。校務をつかさどり、教職員を監督するという法的な職責は、決して上下関係の確立を意味するものではなく、教育という崇高な営みを守るための仕組みなのです。
適正な人事管理という名の人間愛
正しいことを行う教職員を適正に評価すること。これは単なる人事管理ではなく、教育に対する誠実さへの敬意の表れです。私的な感情を排し、客観的な視点で「当たり前のことを当たり前に行う教師」を大切にする。この姿勢こそが、学校という組織の健全性を保つ要諦です。
一方で、職責を果たさない教師に対しては、毅然とした対応が必要です。ここで重要なのは、感情的な対立ではなく、教育の質を守るための理性的な判断だということです。
ある中学校での事例―沈黙が生んだ悲劇
私が知る地方の中学校で、こんなことがありました。ベテラン教師のA氏は、長年その学校に勤務していることを理由に、授業準備を怠り、生徒指導も他の教師に押し付けていました。校長は「波風を立てたくない」という理由で、この状況を黙認していたのです。
その結果、真面目に職務に取り組む若手教師たちが過重な負担を強いられ、次々と体調を崩していきました。最終的に、優秀な教師3名が転校を希望し、学校全体の教育力が著しく低下したのです。
この校長は「学校が回っているからいいや」と考えていました。しかし、実際には学校は回っていませんでした。表面的な秩序の下で、教育の本質が蝕まれていたのです。
職場のいじめ―犯罪行為への毅然とした対応
学校現場におけるハラスメントは、もはや「人間関係の問題」として片付けられるレベルを超えています。それは明確な犯罪行為であり、被害者の人権を踏みにじる重大な問題です。
校長が「教育者」であるならば、まず大人の人権侵害を根絶することから始めなければなりません。子どもたちに「道徳」や「人権」を説く資格は、大人社会での人権侵害を見過ごす者にはないのです。
加害者の心理と対処法
職場でのいじめやハラスメントを行う者には、共通した特徴があります。自分の地位や経験年数を盾に、理不尽な要求を押し通そうとする。「俺は12年もここにいるんだ」「あんたに何が分かる」といった発言で、相手を萎縮させようとする。
このような恫喝に対しては、感情を排した冷静な対応が効果的です。「立場をわきまえてください」という言葉は、相手の感情ではなく理性に訴えかけます。それでも改善されない場合は、職務専念義務違反として明確な処分を検討すべきです。
過去との決別―校長という「今」を生きる
教諭時代に学級崩壊を経験した校長が、過去の失敗を理由に批判されることがあります。しかし、過去の経験こそが、現在の管理職としての資質を形成している場合も少なくありません。
失敗の痛みを知る者だからこそ、教職員の苦悩を理解できる。挫折を経験した者だからこそ、困難に直面した部下に寄り添うことができる。過去の傷跡は、現在のリーダーシップを支える貴重な財産となり得るのです。
贖罪としての管理職ではなく、使命としての管理職
重要なのは、過去への贖罪として校長職を捉えるのではなく、教育への使命として捉えることです。「あの時の失敗を償うために」ではなく、「今、この学校で最善を尽くすために」という前向きな姿勢こそが、真の教育リーダーを作り上げます。
権威と責任の重み―「偉い」ことの真の意味
校長は確かに「偉い」存在です。しかし、その「偉さ」は特権ではなく重責を意味します。学校という組織で最高の権限を持つということは、同時に最高の責任を背負うということなのです。
教職員一人ひとりの人生に対する責任、子どもたちの未来に対する責任、そして教育という営み全体に対する責任。これらの重みを真に理解した時、校長は初めて「置かれた場所で咲く」ことができるのです。
孤独と使命の狭間で
校長職には避けがたい孤独があります。最終的な判断責任を一人で背負わなければならない重圧、部下との適切な距離感を保つ必要性、そして時には unpopular な決断を下さなければならない苦悩。
しかし、この孤独こそが校長という職位の本質的な部分でもあります。その孤独に耐え、使命に殉じる覚悟を持った時、校長は真に学校を守るリーダーとなれるのです。
結び―教育の守護者として
校長が「置かれた場所で咲く」とは、単に与えられた職務を遂行することではありません。それは、教育の理念を体現し、教職員の尊厳を守り、子どもたちの未来を切り拓くための戦いを続けることです。
その戦いは時に孤独で、時に理解されないものかもしれません。しかし、真摯に教育と向き合う教職員を守り、彼らが安心して子どもたちと向き合える環境を作ることこそが、校長の最も重要な使命なのです。
あなたが校長という立場にあるなら、その重責を誇りに思ってください。そして、あなたの決断一つ一つが、多くの教職員の人生と、数え切れない子どもたちの未来を左右していることを、心に刻んでください。
それが、校長という「置かれた場所で咲く」ということの、真の意味なのですから。